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大阪高等裁判所 昭和36年(ネ)1042号 判決 1963年3月26日

控訴人 甲田太郎

訴訟代理人 古野周蔵 外一名

被控訴人 乙野花子

訴訟代理人 大島知行

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

控訴代理人は、「控訴人勝訴部分を除き原判決を取り消す。被控訴人の請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴代理人は主文同旨の判決を求めた。

当事者双方の事実上の主張は、左に記載するほか、原判決事実摘示のとおりであるから、これをここに引用する。

控訴代理人の主張

一、控訴人と被控訴人間に被控訴人主張の頃婚姻予約が整い、昭和三四年五月結納を交わし、同年一一月二日結婚式を挙行し、以後事実上の婚姻生活に入つたが、昭和三五年一月一九日被控訴人が訴外井上直一方に別居するようになり、控訴人が同年二月一日から入院したため、右事実上の婚姻関係が中絶し、本件訴訟となつたため、結局現在では右婚姻予約を履行することができない事実状態にあることは被控訴人主張のとおりである。

しかし、本件婚姻予約はむしろ被控訴人の方から解消したものである。したがつて、右解消に至るについては被控訴人にも責任がある。

以下控訴人側からみた本件の事情を述べる。

二、控訴人と被控訴人との結婚は、世上いわゆる見合い結婚であつた。当時、控訴人は大阪市東区南久宝寺町の住宅兼店舗に両親および使用人とともに住んで衣料品商を行なつていた。既にその頃から右営業の大部分は控訴人が担当し、父内田寛二はその監督をしていたのであるが、控訴人が結婚し、落ち着けば、両親は店を控訴人夫婦に任せて、自分等は天神橋五丁目にある居宅に移転する予定であつた。このことはもち論、被控訴人も承知のことであり、むしろ、その希望するところだつたのである。

さて、控訴人と被控訴人とは、昭和三四年三月頃から見合い等をくり返した末、結婚式を行ない事実上の婚姻生活に入つたのであるが、その間控訴人としては、被控訴人を生涯の伴侶とし生活を共にする決意を固めていたのである。

結婚式が当日になつて約三時間半ほど遅れたことは事実であるが、その事情は次のとおりである。控訴人の両親等が尊守して来た大阪の船場の商家の習慣では、結婚に際しては、「嫁」の実家が式の数日前に「婿」の両親を招いて嫁入道具を披露するものとされていた。被控訴人家ではそのような習慣がなかつたためかその招待をしなかつた。そのために控訴人の両親が感じていた不満が式前日に到着した荷物のことから爆発したものである。しかし、このような事情は控訴人があとに知つたことである。当日控訴人は定時に式場に到着し、両親等を待つて不安と不快に堪えていた。控訴人の両親等の右のような態度は、両親等の年令、育ち、環境に培われた旧式な考えに基づくものである程度已むを得ないところがあるにしても、現在の法思想からは非難を免れないかもしれない。しかし、そのことによつて控訴人が非難を受けるいわれはない。控訴人両親等の右のような旧弊な考え方は、控訴人と被控訴人とが協力して乗り越えて行くべき障害であり、控訴人もそのつもりで被控訴人を激励しかばつていたのである。

三、式後、約一週間の新婚旅行を経て帰宅し、同居するようになつたが、一一月、一二月中は少なくとも控訴人と被控訴人との間では問題を生じなかつた。もつとも次のようなことがあつた。

控訴人と被控訴人は結婚後店の経営を委される予定であつた。そして、商人の常として、被控訴人にも営業事務のかなりの部分を負担してもらわねばならなかつた。それには、簿記と算盤の技術は不可欠のものである。そのため控訴人は、結婚前から被控訴人に「簿記算盤はできるか?」と念を押していた。被控訴人は「できる」と答えていたので、控訴人は安心していた。しかるに結婚後、被控訴人が簿記算盤のいずれも全くできないことが判明した。そこで、控訴人としても「困るやないか」と不満をいうとともに、テープ・レコーダに読み上げ算を録音するなど、被控訴人に簿記算盤を教えるべく努力していた。丁度年末で忙がしく、店を仕舞つてから算盤練習をしていたので、就寝が深夜を過ぎることもあつたが、平均して午前二時というようなことは絶対になかつた。

また、被控訴人は手が赤切れで腫れ切り云々と述べ、控訴人が被控訴人に苛酷な水仕事を強制したと主張するようであるがそのようなことはなかつた。当時控訴人の家庭には女中が三人いて炊事等を担当していたから被控訴人が水仕事ばかりさせられていたということがある筈がない。

このころ、また被控訴人と控訴人の母との間にいざこざがあつたようである。それは、前記結婚式後からの感情のもつれ(実質的には控訴人の両親と被控訴人の両親との間の感情の軋轢)に起因するもので、事柄自体としては、例えば味噌汁の作り方というような些細な事柄に関するものであつた。そのようないざこざについては、控訴人は双方の間に立つて取りなしに努めた。被控訴人に助言し、ときには小言めいたことを言つたこともあるが、それは愛情と、早く夫婦で独立したいとの気持ちに出でたものであつて、非難さるべきものではない。

四、かくて、昭和三五年の正月となつたのであるが、その六日に突然被控訴人はその両親のもとに帰つてしまつた。その一両日前から被控訴人が帰り度い旨言つていたので、「帰るな、帰るなら一緒に帰ろう」と言つていたのに、六日控訴人が得意先に挨拶廻りをしている間に無断で帰宅してしまつたのである。当初控訴人は正月だから里帰りしたかつたのであろうと若干の不満を押えていたが、被控訴人はその後連絡もせず、一一日まで帰つて来なかつた。

控訴人の父の店、レナウン株式会社では、当時使用人を八人使い、一ケ月一、〇〇〇万円ないし二、〇〇〇万円のあきないをしていた。控訴人は主として外交を担当し、店の中心として働いていたが、前記のとおり結婚後控訴人等夫婦でやれるようになれば両親は隠居して店をまかされるようになつていた。控訴人としては被控訴人に早く一人前になつて貰いたかつた。そのために簿記算盤も教え、更に新年になれば店も暇になるからみつちり勉強しようと約束していたのである。それなのに、正月とはいえ里帰りしたまま何日も帰つて来ない被控訴人に控訴人としては腹を立てざるを得なかつた。そこで出したのが甲第三号証の手紙である。以上の経過からして、当然明瞭なように、右手紙は、被控訴人の主張するように控訴人の冷酷さを示すものではなく、逆に控訴人の被控訴人に対する期待と愛情に基づくものなのである。右手紙にある「大阿呆だ、お前は」とは夫婦の愛情に基づいてこそ出る叱責の言葉であり、「心ゆくまで居るがいい」とは「早く帰つて来い」の反語的表現である、「日々これ勝負の世界……」以下は、「これから二人で店をやつて行かなければならない、それは日々勝負をしているようなものだ、それには珠算、簿記が必要だから一緒に練習しようと約束したではないか、何をしているのだ」との控訴人の気持ちを示したものである。このことは、前記経過を基礎として右手紙を虚心に読めば何人にも了解できると信じる。

五、右手紙と入れ違いに被控訴人は帰宅し、追つ掛けて被控訴人の母も控訴人宅を訪れ、協議した結果、被控訴人はその叔父に当る井上直一方から大阪市の簿記学校に通うことになつた。

(1)  これは決して控訴人が被控訴人に押しつけたものではない。納得の上のことである。

(2)  その目的は、被控訴人に簿記、算盤を習得させて一日も早く独立できるようにすること、その間被控訴人と控訴人の両親、これに母との軋轢を避けることであつた。

(3)  控訴人は、井上方へ被控訴人を送つて行き、妻を預かつてくれるよう依頼し、また五日、被控訴人が卒業後は掛時計を持参して井上方へ謝礼に行つている。すなわち、右別居をもつて控訴人が被控訴人に強制したものとするのは全くの誤りである。

六、その頃控訴人が婚姻解消を考えていたような事実はない。むしろ逆である。一一月挙式後年末の忙しさにまぎれて結婚届出でが遅れていたのであるが、一月初旬、控訴人と被控訴人とは同道して東区役所に赴き婚姻届用紙の交付を受け、持ち帰つた。控訴人は同日自宅の書さいで自書すべき部分を書き、店で仕事をしていた被控訴人に記入と署名を求めたところ、「勝手に書いて三文判でも押して出しておいてくれ。」との返事であつた。店の仕事が忙がしかつたにせよ、控訴人はこの返答に憤慨し、「自分で書かなければいかん」と言つた。そしてそのままになつた。一つには届出でに必要な戸籍抄本がまだ入手できていなかつたからでもある。一月下旬被控訴人から戸籍抄本を受け取つた。しかし、その後控訴人が入院したので届出でをすることができなかつた。被控訴人も、右届出用紙に署名しなかつたのである。

右のような次第で、昭和三五年一月頃、控訴人が破談を考えていたことはなく、またこれを仄めかしたこともない。

七、同年一月二九日、控訴人は両親、兄とともに故郷の岡山県へ帰つた。控訴人はその前からかなり身体の調子が悪かつた(被控訴人がいろいろな不満を持つた原因の一はここにもあつたのであろう)。一月二九日朝、両親から「岡山へ帰るが一緒に来ないか」と誘われ、気分転換の意味で同道することにした。被控訴人に連絡しなかつたのは、急なことであつた上直ぐに帰郷する予定だつたからである。ところが、岡山に着いたころから急に病状が悪化し、町医者に診察を受けたところ直ちに入院安静を要するとのことであつた。たまたま、控訴人の家族が従前からかかりつけていた前阪大病院部長の西岡医師が呉国立病院の院長として赴任していたので、車で呉まで走り、二月一日入院した。診断は急性肝炎とのことで、全身に激しい黄疽を生じ絶対安静を要した。

八、同年二月四日に被控訴人が見舞に来た。そのとき控訴人は「遠い所をわざわざ来なくてもよかつた」と一応述べたが、「今度嫁ぐときは……」などと述べたことはない。被控訴人の見舞を受けて喜んでいたのである。もつとも当時控訴人は体力の衰えが甚だしく、十分な歓談ができなかつたのは事実である。

九、甲第四号証の手紙は、控訴人が無聊のうちに病室の窓から流れる雲を見ている際、心に思いついた言葉を書きしるしたものである。自分にしては良くできた良さそうな言葉のように思えたので被控訴人に示したのである。このことはその文章自体から明らかである。

また、被控訴人の本名は「尚子」であつて、それを結婚後、「尚幸」と改めた。そのため、控訴人等は右の二つを混同して使つていた。被控訴人自身も、「尚子」「尚幸」の両方を使つて手紙を寄越していたものである。被控訴人がそれを取り上げて、控訴人の意図を云為するのは誤りである。

一〇、甲第五号証の葉書の数字は、黄疽指数およびレントゲン検査の結果を示したものである。その数日前に被控訴人が来院した際検査を受け、その結果を報らせることを約束していたので、一度文章で書きかけたがうまく書けず結局数字だけを書いて、やや回復しつつあることを知らせたのである。もち論被控訴人は、これらの数字の意味を良く知つていた。

一一、同年四月一五日控訴人は退院し、帰阪した。しばらく家で静養している間、豊中の井上宅に電話が開通する予定と聞いていたので、電話番号を調べて連絡しようと思つていたが、延び延びになつていた。そのうちに、同月二八日控訴人が転んで骨折したので更に連絡が遅れたが、五月初め控訴人は被控訴人に合い、学校も終つたので帰宅してくれるよう言つたが拒絶せられた。その後再び、被控訴人に会い、帰宅をうながした際、被控訴人は「帰らない。これから弁護士に着手金を持つていくところだ。」と述べたので、控訴人は甚だ驚いた。被控訴人は既にかなり以前から破談を予想し、その準備をしていたものと思われる。それはとも角、控訴人としては、ようやく被控訴人の学校が終了し、自分の病気も回復して、いよいよ被控訴人と共に新家庭を築き、家業を継ごうとしていた矢先に、右のような話を聞き驚くとともに落胆したのである。当時被控訴人が控訴人に従つて帰宅してくれて居れば、控訴人の両親と多少の問題を再発したにせよ、結局夫婦としての共同生活を再び始め、もち論婚姻予約を履行することになつたと思われるのである。

一二、以上、要するに、控訴人と被控訴人との結婚は、双方の生家の習慣、考え方の相違から当初から危機を秘めていたのであるが、その後双方の両親の感情的対立が激しくなつて控訴人・被控訴人とも、その渦中に巻き込まれた。そこへ、控訴人の入院骨折というような不幸が重なつたため、控訴人等を取り巻く右のような悪環境を打破できないまま、遂に破局に至つたというのが真相である。

しかし、その間、控訴人は婚姻屈を提出するべく努力し、屈出用紙に自署し被控訴人に提供しているので控訴人には婚姻予約不履行の責任はない。軋轢の主たるものは被控訴人と控訴人の両親との間のものであり、控訴人はその間にあつて、できる限りの努力はしたのである。被控訴人の通学のための別居は双方納得の上でのことであり、控訴人の入院は止むを得ないものであつたから、これをもつて同居義務違反とすることはできない。もつとも以上の経過において、控訴人の性格と当時の健康状態から被控訴人との間に十分な意思の流通を欠き、誤解を招いたことがあるかもしれない。しかし、それについては、事の性質上、被控訴人にも責任がある。したがつて、控訴人に責任があるとしても、過失相殺の適用を主張する。

一三、仮りに、控訴人に慰藉料支払義務があるとしても、その額は争う。内縁解消調停事件における慰藉料の統計(法曹時報四巻五号八八頁、その後のものについては各年次の司法統計年報家事編参照)に照らしても、被控訴人の主張(および原判決の認定額)は異常である。本件においては、このような異常な慰藉料額を是認すべき特別の事情は何もない。控訴人の父が代表取締役となつている、レナウン株式会社には資産があるが、控訴人自身には何の資産もない。控訴人が昭和三五年一月頃得ていた収入は月約一〇、〇〇〇円であり、現在は約二五、〇〇〇円である。

被控訴代理人の主張

一、控訴人主張の右事実中、その要点と思われれる諸点に対する被控訴人の見解は次のとおりである。

(1)  控訴人は被控訴人の簿記算盤習得が将来二人の独立営業にとつて最大不可欠の要点であるかの如き前提に立ち主張を重ね、かつ、陳弁に努めているが、常識で考えてみよう。

相当な営業規模を有する商社の主人の妻が自ら簿記算盤の技術に達していなければ主人との独立の営業ができないと誰が考えようか、知つていてもよいし、知つているに越したことはないが、寧ろ知らないのが大多数でそのためにこそ多くの店員を利用しているのであり、大家の主婦がそれを知らないからといつて営業に何の支障もなかろう、知つているのが寧ろ異常である。零細企業における夫婦共稼ぎの観念および必要性とはその類いを異にするものである。いわんや、被控訴人は田舎の出身であり、商学とは縁遠い学業を卒えて田舎に生活していた者、この女性に対して簿記算盤ができるかと真面目に尋ねることこそ笑止である。控訴人は結婚後早々にして共にこれを教えにかかつたというが、全くの虚偽である。控訴人が主張する程結婚生活に重要であるならば婚前に自動車学校にかえて簿記学校へ通わせなかつたのか。

昭和三五年一月の被控訴人の里帰りは控訴人の父の命によるものであり、しかも帰宅に前後して「ボキソロバンヲスマセテカヘレ」との電報を受けたのである。これいやがらせを内容とする帰宅拒否の意思表示であり、また同時に受け取つた甲第三号証の書翰もこれと全く同趣旨のものである。控訴人は該書翰の文面を愛と励ましの手紙であると弁解する。このような解釈もあり得るかと理解しておこう。ただし被控訴人としては結婚後二ケ月に足らない期間における、しかも自らの意思でない里帰りの際に突如としてこのようなどぎつい電報と手紙を発する程重大なことならば、何故婚前に十二分の調査と指示をしてくれなかつたのか、そうでないと少なくもこれを以つて愛の通信とは受けとりかねるのである。

簿記算盤習得のための別居生活に至つては、まことに異例の極みであろう。控訴人は納得の上と主張する、仮りに納得であつてもそれは止むを得ざる納得であることは自明である。何故止むを得ず納得してそれを実行したのか、すなわち、苦痛を忍びながらも将来における結婚の幸福を期待したからである。何故無理にも納得せしめたのか、すなわち控訴人に離別の準備的思惑があつたからである。

(2)  控訴人の呉病院入院中の両者間の折衝経過における控訴人の冷酷無残の仕打ちは誠に言語に絶するものがある。控訴人の陳弁する甲第四、五号証の書翰の解釈の如き問題ではない。該書翰も含めての前後のいきさつを見よ、身を尽し心を尽し誠に神にも通ずる誠意の限りを尽した被控訴人に対する控訴人の態度は如何であつたか、殊に退院後も一片の通知すらなさず態々被控訴人が呉市に赴いたときは、既に控訴人は帰宅していた件りの如き、そのときの被控訴人の心情を思えば、一掬の涙なきを得ず、事実万策尽きて離別の意思を固めたのもこのときである、それにしても控訴人の非情の程は何と評すべきであろう。それに尚例えば控訴人は甲第五号証の医学上の専門的表示記号につきもち論被控訴人はこれらの数字の意味をよく知つていたと弁じているのであるが、被控訴人は答えて云おう「知りません」と。要するに被控訴人は自ら離別の意を決せざるを得ないこの極端まで追いやられたのである。

二、本件婚姻予約を破棄したのは控訴人である。しかもその破棄の方法は陰険卑劣極まるものであり、解消のイニシアチブを相手方にとらそうとする作意に充ちたものである。婚姻屈の提出にしても、控訴人にその一片の意思さえあれば即時に実行可能のもの、理由を具して陳弁するところは反つてその意思なきことを証明するに帰する。本件婚姻の解消に被控訴人は何等の過失も責任もない。

三、被控訴人は吉野地方における相当な素封家の娘であるが、本件のために受けた一家の社会的面目はもとより、個人としてもその家格にふさわしい二度目の縁談はも早や望むべくもあらず、その精神的苦痛は真に筆紙に尽し難いものがある。控訴人は相当な会社の重役として、また数億円の個人資産を有する親の相続人として被控訴人のこの苦痛を償うのに僅か一五〇万円で事足りるというのか、殊に本件破約の行為は正に残酷物語とも称すべきもの、彼此総合勘案して右金額は決して過大ではない。殊に控訴人の主張によれば、同人の父の店では一ケ月一、〇〇〇万ないし二、〇〇〇万円の商いをしており、控訴人は店の中心、営業の大部分は控訴人が担当して居り近い将来両親は隠居して店をまかされる程の地位にあつたものである。これ被控訴人の本訴請求の金額決定の一の重要な基礎をなすものである。

(証拠関係)省略

理由

被控訴人と控訴人間に昭和三四年四月一二日頃婚姻予約が整い同年五月結納が交わされ、同年一一月二日結婚式を挙行したこと、挙式当日控訴人の母が被控訴人の嫁入道具が少ないことに不満を持ち午後三時半の定刻に参列せず挙式が数時間遅れたこと、挙式後被控訴人は控訴人方に同居したが被控訴人が簿記算盤が十分出来ないことからいざこざが起きていたこと、昭和三五年一月六日被控訴人は実家の奈良県吉野郡川上村大字東川三八九番地の両親の許に里帰りをなし同月一一日控訴人方に帰つて来たが、控訴人はこれと入れ違いに被控訴人宛「大阿呆だ、お前は、心のゆくまで居るがいい、日々これ勝負の世界にこれだけは心して居く事だ珠算と簿記、生活の上において両者は必然的なものであるという事を」と書いた手紙(甲第三号証の一、二)を出したこと、被控訴人は控訴人ならびにその両親の希望により簿記算盤の修習のため控訴人と別居して豊中市在住の被控訴人の叔父井上直一方に寄寓し同年二月三日から大阪市内の簿記学校に通い出したこと、ところが控訴人はそれより数日前岡山市に帰郷し病気になつて呉市の病院に入院したが、この事実を被控訴人には通知しなかつたこと被控訴人はこの事実を知り驚いて同月四日見当をつけて呉国立病院に訪ねたところ、控訴人からわざわざ来なくてもよかつたといわれ、翌日一応帰阪したが二月一四日再び同病院を訪ね、同月二九日三度び控訴人を見舞つたところ、その時控訴人から被控訴人あてにしたためた手紙(甲第四号証の一、二)を渡され、帰宅して開封すると、中には「姿あるなし、形あるなし、色あるなし、動あるなし、智あるなし、その名″雲″」と書いてあるだけであつたこと、被控訴人は控訴人の病状を案じ、同人に検査の結果が判つたら知らせて欲しい旨懇請して置いたところ、控訴人は同年三月四日付で「+13透視○」とだけ書いた葉書(甲第五号証)をもつて被控訴人に通知したこと、被控訴人は同年四月二八日四度び病院を訪れると、控訴人は同月一四日既に退院帰阪していたのでやむなく空しく帰途についたこと、婚姻の屈出でがついになされず、被控訴人は控訴人との婚姻生活を断念し本訴提起に及んだこと、以上の事実については当事者間に争いがない。

被控訴人は、本件婚姻予約が破綻のやむなきに立ち至つたのは被控訴人主張の如き数々の控訴人の不法な行為によるものであると主張するに対し控訴人はこれを争うので考察する。

原審での証人阪本弘之祐(第一、二回)、同内田寛二の各証言、原審ならびに当審での被控訴本人の供述、原審での証人阪本孝之祐の証言により成立を認めうる甲第七号証、成立に争いない甲第八号証の一ないし三、当審での控訴本人の供述により成立を認め得る乙第一号証の一ないし二三と前記当事者間に争いない事実ならびに弁論の全趣旨を総合すると次の事実が認められる。

(一)  被控訴人・控訴人の各経歴、両親の職業資産状態等

被控訴人は奈良県立川上高等学校を経て京都女子大学の短期大学を卒業し、本件婚約当時(二三才)奈良県吉野郡川上村大字東川の父阪本孝之祐の許において家事の手伝いをしていた。被控訴人の父は林業を営み約二千五、六百万円の資産を有している。

控訴人は本件婚約当時(二六才)大阪市南久宝寺町二丁目の父内田寛二の許で同居し父が代表取締役をしているレナウン株式会社(資本金百万円)の専務取締役をしていて、昭和三五年一月頃の本俸は月額一〇、八六〇円、その後次第に昇給して昭和三七年四月頃は二五、〇〇九円であるが、父内田寛二は約三億円の資産を有し、自家用車三台を備えていて、近き将来において父より営業上の地位を任かされる予定になつていた。

(二)  被控訴人が控訴人の両親から受けた扱い。

(1)  被控訴人は既に嫁に行つていた姉二人より上廻る嫁入仕度くの準備はしないでもよいことについて控訴人から事前の了解を得、約一五〇万円位費用をかけて嫁入道具を整え控訴人方に持参したのであるが、結婚式当日午後五時頃になつて被控訴人の父は媒酌人の宮武を通じ控訴人の両親から控訴人方に呼びつけられ、控訴人宅に赴いたところ、控訴人の母内田安枝から、行きなり「内田家を見くびるな、あの様な荷物を持つて来て、衣裳見せに大恥をかいた、今日の式なんかに私は行かん」と言つて大変立腹した苦情を聞かされたこと。

(2)  右悶着は仲人の取りなしや控訴本人の「心配するな、僕を信じて何処までもついて来い」との言で一応治まり式は午後九時頃無事済み被控訴人らは約一週間の新婚旅行を終え、控訴人宅で同居することになつたのであるが、控訴人の母は依然として打ち解けず被控訴人に「あの荷物は何です、結婚式にごねたのは私です」と言つて種種小言をくり返へし、その後も何かにつけ船場のしきたりということに託つけ文句を言つて冷たく当つたり、新婚早早よく午前二時頃まで働かせていた。

(3)  昭和三五年正月五日頃、控訴人の両親や姉達は被控訴人に対し、実家に帰つてしきたりの違いを親に話して来るようしきりと催促し、被控訴人が控訴本人よりどんなことがあつても帰つてはいかんと止められて帰らない決心をしていると、なおも里帰りを催促せられるので控訴人の不在中止むなく里帰りをしたのであるが、その時控訴人の母は被控訴人に対し一ケ月でも二ケ月でもゆつくりして来いと言い放つた。そして同月一一日被控訴人が再び控訴人方に帰つて来ると控訴人の両親は更に冷たくなつていたので被控訴人はやり切れなくなり実母を呼んで控訴人の両親と話し合つて貰つたところ、控訴人の両親は、簿記を知らないと内田家の嫁として勤まらないといい、被控訴人に簿記学校に通学することをすすめた上、自宅から通学されては店の者に恥をさらすことになるから豊中在住の被控訴人の叔父方に寄寓して通学すること、卒業まで三ケ月間は絶対控訴人方に来ないこと、卒業して帰るときは店の者に格好が悪いから表から入らず裏口から帰るように、もし天神祭までに簿記が一人前にならなければ婚姻を解消するなどの注文をなした。

(4)  同年二月三日被控訴人は控訴人と場所をきめて会う約束をしていたが控訴人が来ないので控訴人方に電話したところ、控訴人の父内田寛二が電話に出て、「栄治は肝臓が悪くて呉の病院へ入院した」と申し、被控訴人が入院先を詳しく尋ねても、控訴人の父は面会謝絶だから会いに行つてはいかんと言つて病院名を教えなかつた。しかし、被控訴人が見当をつけて控訴人を見舞つたところでは、控訴人は医者から面会謝絶を命ぜられていた様子はなかつた。

(三)  被控訴人が控訴人より受けた扱い。

(1)  控訴人は結婚式当日の前記悶着の際は被控訴人に対し前記の如く被控訴人を慰め、その後も昭和三四年頃までは被控訴人を庇う愛情を示していたのであるが、翌年正月被控訴人が里帰りしてからは、態度が一変し、甲第三号証の一、二のような手紙を被控訴人に出した外、被控訴人が被控訴人方に帰つてから後控訴人の両親同様被控訴人に冷たく当り、被控訴人が簿記学校に通学のため井上方に寄寓するにあたつても控訴人の両親の意見に調子を合せ、昭和三五年一月二八日頃梅田の或る喫茶店で被控訴人と会合した際には、「僕はもう婚姻せぬ」とか「お前はまだ若いんだから自由にしてくれ」とか「流れに逆わず流されて行く」とか放言し、被控訴人が「そんなこと言われると私はますます困ります」というと、控訴人は「僕はそんな男でない、買いかぶるな」と突き放すようにあしらつた。

(2)  そのとき、被控訴人は戸籍謄本を控訴人に渡して入籍して欲しい旨頼んだが控訴人はまあ待てと言つてこれに取り会わなかつた。

(3)  控訴人は同年一月二九日旧正月のため故郷岡山に帰つたのであるが病気となり二月一日呉国立病院に入院しながら被控訴人には右の事実について何の通知もせず、被控訴人が病院に尋ねて来ても夫らしい態度を示さず頗る冷淡であり、控訴人の病状を案じて通知方を頼んで帰つた被控訴人に対しなした病状の通知も前顕甲第五号証の一、二の如きものであり、また甲第四号証の一、二の如き謎のような手紙を被控訴人に渡して同人を不安困惑の境地に陥れた。更に同年四月一四日頃退院しながら、その事実を被控訴人に通知せず、右退院の事実を知らない被控訴人は同月二八日控訴人の見舞に呉国立病院に赴き、退院の事実を知つて空しく帰阪した。

原審での証人内田寛二の証言、原審ならびに当審での控訴本人の供述中右認定に反する部分は右認定に供した証拠に照らし信用できない。他に右認定を左右する証拠はない。

なお、原審ならびに当審での被控訴本人の供述によると、被控訴人は控訴人の要求により、婚約期間中には自動車運転免許状をとり、結婚後は控訴人と別居してまで簿記学校に通学してこれを卒業し、控訴人が前記の如く冷淡な態度に豹変した後も終始誠心誠意をもつて控訴人に尽して来た事実が認められる。控訴人は昭和三五年一月初旬婚姻届用紙に控訴人関係部分を書き被控訴人に記入と署名を求めたところ、「勝手に書いて三文判でも押して出しておいてくれ」と答えた旨主張し、原審ならびに当審での控訴本人の供述原審での証人内田寛二の証言中には右主張に副う供述部分があるけれども、右はいずれも原審ならびに当審での被控訴本人の供述に照らし信用し難く、他に被控訴人が婚姻予約の後控訴人に対してはもち論、同人の両親に対しても非難さるべき行為があつたことを認めるに足る証拠はない。

思うに、婚姻の予約を結んで事実上の婚姻生活に入つた男女は婚姻生活後も実在する両親に対しては依然子として切つても切れない密接な結合関係にあるから、もとより法律上はその支配と庇護のもとにあるのではないとしても、人道的、経済的には同居の親に背き親を無視した生活態度を執ることは一般に非難される行為とされよう。ことに旧憲法下、旧民法下においてはその度合いは強固であつた。しかしながら、新憲法の制定とともにいち早く法的には家の制度は廃止され、かつ、婚姻は両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦は同等の権利を有することを基本として相互の協力により維持されなければならないことが明らかにされた(憲法第二四条)以上、家族制度の支えであつた父権的な親本位の考え方や態度は反省されなければならないのであつて、親は必要以上に子の婚姻や結婚生活に干渉することは許されないし、子も親の意向に盲従あるいは迎合し、配偶者の個人としての尊厳と両性の本質的平等を冒涜するような行動を執るべからざることはいうまでもないことである。夫婦はそれぞれ夫としての使命、妻としての使命を自覚し、互にそれを理解し尊重して行くのでなければ婚姻生活は維持できないし、円満な家庭は夫婦が愛情と信頼、誠実と奉仕を惜しみなく与え、またそれが期待されるところにおいてのみ築かれるのである。婚約を結んで事実上の婚姻生活に入つたからには予約配偶者は速かに婚姻の届出でをなすべく、正当の事由なくして婚姻予約を破棄することは許されないし、もしこれを破棄した場合は不法行為として損害賠償の責を免れない。予約配偶者の一方が正当の事由なくして他の一方をして婚約を断念せざるを得ない境地に陥れて破碇させた場合も同断である。もし子が親に加担し、あるいは親が子に加担して婚姻予約を破棄し、あるいはこれを破綻させたとすれば民法第七一九条に鑑み共同不法行為として各自連帯してその賠償の責任を免れ得ない。

前記当事者間に争いない事実および認定事実を総合要約すると、控訴人は昭和三四年四月被控訴人と婚約を結び、同年一一月挙式の上控訴人の両親の許で事実上の婚姻生活に入つたのであるが、挙式当日控訴人の両親は被控訴人の側にとがめられる事情はないのに、被控訴人の嫁入荷物が予期していたより少ないとしてひどく立腹し、その後も右不満を持ち続け、被控訴人を排斥する意図をもつて絶えず無情な悪意に満ちた態度であしらつていた。しかし控訴人は被控訴人が昭和三五年一月里帰りするまでは格別深いという程度ではないが通常程度の愛情を示して被控訴人をかばつていたのであるが、どうしたわけか、その頃から控訴人はその両親特に母親が持ち続けてきた被控訴人排斥の意図に同調するが如き態度に一変し呼吸を合わせて冷酷な態度を執るに至つた。すなわち、控訴人方においては、新婚早早直ちに新妻の被控訴人が簿記や算盤の仕事を引き受け、その技量を発揮しなければならない格別の必要と事情が認められないのにかかわらず、また被控訴人の学歴と年令からみて右の知識と技量を備えていないのは当然であり、これを期待することは無理であるにかかわらず、ことさらにこれを欠いていることを過大に取り上げ、簿記等の修学が婚姻の最重要な条件であるかのごとくに告げて、控訴人と別居してまでその早期習熟を強く要求し、控訴人もその親の意向に和し、被控訴人にそれを勧め、その修学を口実にして被控訴人に別居生活を強いた。被控訴人はすなおにこれを聞き入れ、奇妙にもわざわざ大阪から豊中に別居して大阪の夜間の簿記学校に通つたのである。その前後から控訴人は被控訴人に対し暗に離別する意思であることを仄めかす言辞を弄し、呉の病院に入院してもその事実を妻たる被控訴人に知らせないのみか、入院中控訴人の病状を案じて幾度も見舞の手紙を出し、また幾度か訪ねて来た被控訴人にまともな返事を出したことは一度もなく、謎のような手紙で冷たくあしらい、果ては退院して二週間経過してもその事実を被控訴人に知らせない無情な仕打ちをもつてこれに報いた。以上の控訴人およびその両親の一連の行為と容態は、夫の権威をもつて妻たる被控訴人を膝下に屈服させ、あるいは親の権力をもつて子の妻たる被控訴人をれい属支配せんとする封建的思想の発現たるのみならず正に、一個の人格的存在、知性と教養を備えた初婚の若い女性に対する異常なまでの残酷無情な精神的な虐待、侮辱というべきである。一途に控訴人の身を案じている被控訴人は、退院した控訴人を、知らせられないままそうとは知らず、昭和三五年四月二八日呉の病院に空しく訪ねさせられ、空虚と絶望を抱いて帰阪するほかはなかつた。このときにおいて控訴人の加えた精神的虐待、侮辱は極まつたというべく、被控訴人が遂に一切の希望と気力を失い、救いと終りなき忍従と献身の控訴人との生活に自ら終止符を打ち婚姻予約を断念したのも当然というほかない。神以外のなんひとかこれをとがめえようか。それまで被控訴人は新妻としてひたすら夫たる控訴人に愛情と信頼を注ぎ、自らは求めること少なく誠実と奉仕に終始し、控訴人の親に対しても、その無理な要求に堪えて良き嫁たらんと忍苦と努力のかぎりを尽くしてきた。一方すでに昭和三五年一月末には控訴人は被控訴人に対し離別の意あるがごとくほのめかし、被控訴人が戸籍謄本を控訴人に渡して入籍を頼んだが、控訴人はこれに取り合わなかつた事実がある。彼此考究すれば、控訴人はその両親と共同して正当な事由なくして控訴人をして結婚を断念せざるをえない境地に陥れて婚姻予約を破綻させたものにほかならない。控訴人は、被控訴人こそ本件予約を破棄したものであると主張し、甲第三ないし五号証の各一、二、その他控訴人ならびにその両親の被控訴人に対しなした行動につき、るる主張しているけれども、要するに趣旨の弁解の域を出でず、本件全立証をもつてしても、前記認定を覆えし、控訴人の右主張を肯認するには足らない。また控訴人は、本件婚姻予約の破綻については事の性質上被控訴人もまたその責任の一端を負うべきである旨主張するけれども、右は抽象的に被控訴人においても努力が足らなかつたというに過ぎず、被控訴人において本件婚姻予約の破綻につきなんら責むべき行動がなかつたことはさきにみたとおりであるから、控訴人主張の過失相殺の抗弁は採用できない。そうすると、被控訴人は控訴人の婚姻予約不履行により精神的苦痛を蒙つたことは見易き道理であるから、控訴人は被控訴人に対してこれを慰藉するに相当な金員を支払うべき義務がある。

よつて、慰藉料の額について考える。以上諸般の事実を総合すると控訴人が被控訴人対し支払うべき慰藉料の額は一五〇万円をもつて相当と認める(なお当審における控訴本人の供述によると、控訴人は昭和三七年四月二五日既に他の女性と結婚している事実が認められる。被控訴人がこれを知つたとすれば傷心を新たにするであろうが、それは論外とする)。そうすると、控訴人は被控訴人に対し一五〇万円とこれに対する本件訴状送達の日の翌日であること記録上明らかな昭和三五年五月一四日以降右完済まで年五分の割合による損害金を支払うべく、これと同旨の原判決は相当である。

よつて、民訴第三八四条、第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 平峯隆 裁判官 大江健次郎 裁判官 北後陽三)

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